初期中絶の体験を記録していく

やむをえない事情で初期中絶をしなくてはならなくなった。その体験を記録していく。

手術当日(2)

11時15分頃、看護師さんに連れられて手術室へ。このときも点滴はしたまま。右ひじを曲げられないのでかなり不便。
手術室に入ると、手術台が目に飛び込んできて戸惑う。婦人科の内診台(椅子)のようなものをイメージしていたのだが,本格的な手術台だった。緊張が高まるが、このあたりから何となく意識がぼんやりしてきた。事前にした筋肉注射のせいだろうか。
看護師さんが2名。医者はまだいない。手術台に寝かされて「ライトがまぶしいので目の上にタオルを置きますね」とタオルを置かれる。何も見えなくなった。履いていたパジャマのズボン・靴下・下着を看護師さんにとってもらい、心電図の器具を胸につけられる。手足も所定の台の上に置かれ、右腕は血圧を測るために何かをまかれていた。足が固定されていたかどうかは覚えてない。
ずいぶん待った気もするが、実際には5分か10分くらい経過しただろう頃に医師の声がした。このときすでに眠くなっていたのだが、「麻酔をしていきますね」で意識がなくなる。麻酔のなか、非常に現実的な夢(幻覚)をみたので、以下に記す。

麻酔時の夢:

真っ暗ななか、極彩色の赤や緑の原色の大きなパネルが見える。金属製で下敷きのような薄さだが、縦は5メートルくらいありそう。それが、強風に吹かれた本のページや印刷中の新聞のように、ものすごい速さでめくられながらこちらに近づいてくる。パネルにあおられて、少し冷たい風を感じる。自分自身がそのパネルのページの中に挟まれて吸い込まれそうで恐怖を感じるものの、すぐにその圧倒的な存在感に抵抗をあきらめる。
気づくと、モノクロの世界にいる。「居る」というか、その中に粒子として溶けている感覚。灰色の長方形だけが視界の端にみえる暗い空間。二次元のようで奥行がない。自分が粒子か感覚だけの存在になり、自分の肉体が失われたことを悟る。自分が誰か、何であったか思い出せない。思い出せないことは苦痛ではなく、「他の誰でもない自分」という実在感が消えて、他人や周囲のものとの区別の感覚も消えている。自己にも他者にも一切の関心がなく、ものすごく静かで平板な気分になっている。苦痛もないが特に多幸感があるわけでもなく、ただひたすらに「おさまるところにおさまっている」という感覚。幸せとかつまらないとかの一切の感情が失われた無風の状態。時間の感覚もなく、過去や未来への関心もまったく失われている。

そうしていると、「今まで自分が現実だと思っていた世界や自分の肉体のほうが嘘で、本当はずっとここでこうしていたんだな。そしてこれからもずっとここにいるんだな」「自分などそもそもなかった。むしろこれがあるべき姿だった」という、これまで感じたことのないような気分に。このときの、まさに「無風」の精神状態がもたらす安心感は、ちょっと体験したことがない感覚で、おそらく麻酔で脳のどこかが抑制されていたことによるのだろうが、目覚めた後もかなり強く印象に残った。
ただ、掃除機のようなブーンという音や電子音(バイタルの音?)が耳元でものすごく大きく聞こえて、「この音はいつ止むんだろう?この音が止めば完璧なのに」と思っていた。(でもそれに対して怒りを感じるとかではなく,ただ単に「こうなったらいいのに、どうしてならないのかな?」という超フラットな感じ)。
肉体がなくなった(自分と肉体は無関係にものなった)と感じる前後に、本当に肉体が自分と無関係のものになったのか試しに左足を動かしたらバンドのようなもので拘束されていて、「あ、拘束されているんだ」と思ったことを覚えている。このとき麻酔薬が切れかけていたのかもしれない。そのあと(麻酔薬が追加されたのか)モノクロの無の世界に入り「まぁいいや。やっぱり自分では動かせないし、肉体とかもう関係ない」という境地に。

麻酔からの覚醒:
その状態にしばらくいると、遠くから「○○さ~ん・・・○○さ~ん」と名前を呼ぶ声が聞こえてきた。しかし、この時点ではその「声」が何を意味するのかわからない。人の声で、その声が示しているのは名前らしい、と思い出す。「誰かの名前が呼ばれている」「もしかして○○って私の名前?名前があった気もする。でもずっとここ(モノクロの世界)にいた私に名前?」と混乱する。そして数秒の間で記憶を取り戻しながら、「あぁ・・・あの世界にまた戻るのか。あの肉体と感情を持った世界に。面倒だな。ここでずっと時間も感情もなく静かにしていたい」という気分があった。(あとから思い出すと、現実に戻ってきたくないと感じた自分がなんだかショックだった。)
一度思い出すと、覚醒速度は一気に上がった。下着を履かされる感覚の後、「○○さん,深呼吸してください!○○さん!」という声が聞こえた。朦朧としながら思い切り息を吸う。呼吸が止まっていたのか、息を吸いながらも「苦しい」という感覚。閉じていた喉をこじ開けるように、ヒューという音がする。深呼吸しようとするが、息を吐こうとすると同時に強烈な吐き気で胃が押し出されそうになる。絶食しているから空気しかでてこない。
断片的な意識。手術台に体を起こされるが、首が座らない。「○○さん、首まっすぐにして!前を向いて!」と声が聞こえ、「首ってどこだっけ」と思いだしながら、首を立てるが油断すると意識を失ってしまう。看護師さんに抱きかかえられて車いすに乗せられ、「足をここ(車いすの足置き)に置いてください、見えますか?」と声。自分の足に目をやって、「これが足。うん。足をここに置く。置いた」と思った瞬間意識が飛んで再び首がガクンと落ちる。「○○さん、起きて首をまっすぐにしてください!」と声。再び呼吸が弱まったのか、「○○さん、深呼吸して、息を吸って!」の声が何回か聞こえる。深呼吸すると息を吐くときに強烈な吐き気。嘔吐するが空気しか出ない.
手術室から個室までの10メートルほどの廊下。嘔吐用のトレイを顔の横に添えられ、嘔吐しながら車いすを押されて移動(ほぼ意識なし)。その後、看護師さんの補助を得ながらベッドに横になる。眼鏡をしていないこともあって、部屋の様子がすべてがぼんやりしている。「ここはどこ?」と何度も落ちそうになる瞼をあげて見回す。このときはすでに、酔っ払いすぎたときのような酩酊状態に似た感覚。気道確保のためか吐き気防止のためか枕をはずされて、顔の横に嘔吐用のトレイを置かれ「ちょっと休みましょうね、吐きたくなったらこのトレイにしてくださいね。何かあったらこのボタンを押してね」みたいなことを言われる(記憶曖昧)。

ちなみに、この麻酔あがりの軟体動物みたいになっていた私を支える力仕事をやってくれたのが、午前中に来た点滴が下手な看護師さんだった。点滴下手だったけど、このときのことを思い出すと感謝の気持ちがわいてくる。そのあと、何回か看護師さんが手術室に置き忘れた眼鏡や荷物などを運んできてくれる。呂律が回らない状態で「か、かんごふはん、まく、まくらを・・・」とか「あいがとございまひた(ありがとうございました)」とか言ってたと思う(吐き気はすぐに収まったので枕を入れてもらえた)。

部屋に戻ってきたのは12時頃だったのだと思うが、いかんせん時計も何も見えなかったのでわからない。

14時頃になると、かなり意識がはっきりしてきた。体を起こすとめまいでフラフラだが、現実から乖離した状態や記憶喪失状態はほぼゼロに。ふらつきつつ、夫に無事終わった旨をメールした。看護師さんがやってきて、退院後の飲み薬の説明をされ、水とクッキーの載ったトレイが置かれていった。最初は吐くのが怖くて水にも手をつけなかったが、14時半頃になって、ほぼ吐き気がないことを確認して恐る恐る水を飲む。信じられないほど冷えた水がおいしい。ひと息に飲んでしまった。そのあと、恐る恐るクッキーも食べた。これも相当おいしかった。もう少し水がほしくてナースコールを押してしまったが、2杯目以降は部屋についてる水道水を飲むように言われた。水道水はぬるいせいか、もしくは2杯目のせいか、あまりおいしく感じなかった。

意識がはっきりしてくると、さっき体験した麻酔中の幻覚が改めて怖く感じた。たった一人で、感情を押し殺しながら朝から過ごしたせいもあったかもしれない。感情や肉体や時間のない、精神的に無風の世界に安心感を覚えた、自分の孤独な願望に直面させられたことへのショックだったかもしれない。かなりケミカルな現実的な幻覚だったので、それを体験したこと自体もかなり戸惑いがあった。
15時半。診察室に呼ばれる。医師から「よく考えてよく相談しての決断だったと思うけど、手術もできる限り慎重にやったけど、今回で中絶は最後にしないといけないよ。あなたには子宮筋腫もあって、生理のたびに大きくなるから、大きくなるとますます出産が難しくなる。次はちゃんと計画して準備してな」と言われる。すべてそのとおりだと思った。「はい」と答える。部屋に戻って着替えを済ませた。16時に退室。

帰りの車のなかでは、体は疲れていたが、ほっとしたこともあって精神的にはさほど動揺していなかった。空腹で、普通に夕飯もきちんととれた。痛み止めの座薬が入っていたせいか痛みもほとんどなく、出血もなかった。